< 第 9 章 >
調心 ― 待ったなし
   
 

 2月から5月(※2007年)にかけて、新しく出版するDVD付きの本のための撮影がありました。昨年暮れに出版社からこの話を勧められたときには、正直に言って気が重く、どうしたものかと悩みながらしばらく返事を保留していました。というのは、これまで出版した本は、その読者層や編集目的にふさわしい方を撮影のモデルとして推薦し、私は監修することが主な役割という立場でいたのですが、今回はぜひ私自身に一人で演じて欲しいという依頼だったからです。各地での大会や教室で大勢の方を前に一人で演じることはよくありますし、それはそれで緊張するものですが、カメラの前に立つのはそれが長く映像として残るという点で、また別のプレッシャーがあるのです。

楊 慧 太極拳は流れを止めることなく演じるものですが、写真撮影ではひとつひとつコマ送りのようにポーズをとり、静止しなくてはならない時もあります。また、今回のDVD収録では前面と背面の二方向からに加えて、道衣を着ての演舞も撮影することになったため、何度となく演舞を繰り返すことになりました。それは出版社の注文でもありますが、私としてもできるだけ良い教材になる映像を残したいという思いから、肉体的にも精神的にもほんとうに大変な作業でした。

 今回の撮影を行いながら、私が初めてカメラの前で演舞したときのことを思い出しました。もう20年以上も昔のことでしょうか、師家といっしょのビデオ撮影でした。当時は私もまだ若く、うまくできるだろうかという不安でいっぱいでした。それに加えて、スタジオは壁も床も真っ白で、しかも強いライトを浴びるため距離感がつかめず、まるで雲の中にいるような足元がおぼつかない状態に陥ってしまったのです。そして、演舞の途中で前に出すべき足を引いてしまったことに気づきました。私は撮り直しをお願いしましたが、師家は「あなたが一生懸命やったのならそれでいい」と笑顔で言い、取り合ってくれませんでした。多分私だけでなく、ほかの先生方も同じような経験をされているかと思います。

 太極拳の演舞は常に1回限りで、やり直しはしない。師家はそのような信念を貫いていました。そういえば、師家自身の写真やビデオの映像を見ると、時代によって太極拳の表現に多少の違いがあります。師家の背中を見ながら太極拳を学んできた私たちにとって、どれをお手本にしたらよいのか戸惑うところもあり、協会の指導者育成委員会でもこの点が検討課題になっています。 師家のこの信念は、太極拳の源流が武術であることに関係しているのではないかと私は考えています。あらゆる武術には大きく分けて攻撃と防御があり、最も効果的な攻撃と防御のパターンが「技」や「型」として定着し、今に伝えられています。しかし、実戦では対戦相手との体格や技量の差など、状況に応じてそうした「技」や「型」を変化させなくてはなりません。まして実戦ならば「待った」や「やり直し」などは、ありえないということになります。

 太極拳は武術ではなく健康法である、と日ごろから師家は言っていました。そのことと矛盾するようではありますが、太極拳を演じるときの師家は、実戦の場に我が身を置いているような集中力と気構えで臨んでいたのかもしれない、と思います。心静かに気息を整え一度演舞を始めたなら、たとえ途中で「型」から外れることがあったとしても流れを止めずに演じ切ることの方が大切であり、それはそれで完結した太極拳であると師家は教えていたのだと思います。

 人は戦いを前にすると、アドレナリンが分泌され、心拍数が増加し血流もよくなるそうです。精魂込めて演じることが、結果として健康法につながるのだとも考えられます。 楊名時太極拳を学ぶ皆さんの中には体の不自由な方もいらっしゃいます。師家のように理にかなった美しいフォームで演じたいと念じながらも、手や足が思うように動かないというじれったさを感じることがあるかもしれません。しかし、自分の体が動く範囲で、精一杯心を落ち着かせ、深い呼吸で、気力を込めて動けたならば、それはりっぱな楊名時太極拳であると思います。 そういう私も、師家の心境にはまだ遠く及ばず、気構えも程遠いものがあります。でも、楊進理事長も講演会で語られました。「100万回やって1回として同じ太極拳はなく……」。 今回の撮影に当たっては、私なりに1回1回の演舞に精魂を込めました。今後とも理事長はじめ協会の皆様と同心協力で、師家から学んだ太極拳を次の世代につないで行くため、できる限り努力していくつもりです。
謝謝。

 

 

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