< 第 7 章 >
自他共栄の心
   
 

 昨年(※2006年)11月、世界71カ国の選手が日本に集い、国際松濤館空手道連盟の世界選手権大会が行われました。11月5日、新宿の京王プラザホテルで開かれたその祝賀会(さよならパーティ)に中野完二副理事長といっしょにお祝いにうかがい、各国の選手たちでにぎわう会場で、館長の金澤弘和先生に久しぶりにお目にかかることができました。父は私が生まれる少し前から空手を始め、のめりこむように稽古に打ち込んだ時期があったそうです。その父が生涯の師と仰いだのは、故・中山正敏先生(日本空手協会首席師範)でした。そのご縁で、空手界の麒麟児と呼ばれ、学生時代から既に花形選手であった金澤先生と出会い、それから父が亡くなるまで50年を超える友情を紡いできたのです。

 私事ながら、両先生とのお付き合いは家族ぐるみで、私も小さい頃から大層かわいがっていただいたものです。中山先生には毎年のようにスキーに連れて行っていただきました。金澤先生が優勝したときの花束贈呈は小さな私の自慢の「お仕事」でしたし、海外遠征のたびに珍しいおもちゃやお人形をいただいたり、中学のころには日本でまだほんとうに珍しかったスーパーカーに乗せていただいたりと、思い出を数え上げたらきりがありません。その先生も75歳になられたはずですが、相変わらずの若々しさと精力的なご様子に驚かされました。

師家  空手の達人である金澤先生も、太極拳では父に入門し稽古をされていたそうです。それは、空手と太極拳の違いはあっても、互いを友と認め、互いに師と仰ぎ、自他共栄の心で互いの「道」を究めようとする間柄であったのだと思います。
  ところで、父の太極拳が脚光を浴びるきっかけとなったのは、中山先生に請われて、昭和42年1月の日本空手協会の鏡開きで太極拳を演じたことでした。多くの空手家、政財界からの来賓や報道関係者の前で行われた様子がスポーツ新聞に掲載され、その記事を見た日本武道館の常務理事からのお誘いにより、初めての太極拳教室が武道館で始まりました。楊名時太極拳の最初の種がこのとき芽吹いたのです。

 この武道館教室の参加者の中に中野副理事長がいらっしゃいました。中野先生は、当時文化出版局の編集者として父に本の出版を申し込んだそうですが、その際に、何か月かご自身で体験してみたらと誘われて教室に参加したそうです。それ以来、中野先生は稽古を重ね、陰に陽に楊名時太極拳の普及に尽力され、現在は副理事長として、協会の屋台骨を支えていただいています。

 祝賀会では、もう一人ぜひお会いしたい方がいました。金澤先生の門下生で、国際松濤館空手道連盟カナダ支部長をされている堂薗謙三先生です。堂薗先生は7年ほど前に日本健康太極拳協会の師範の免状を受けており、カナダでは空手だけでなく楊名時太極拳も熱心に指導されている方です。遠路はるばる箱根の研修会に何回か参加されているので、ご存知の方もいると思います。
  一昨年のちょうど父が亡くなった頃に大怪我をされたとかでお別れ会には参列されなかったため、久しぶりにお会いできることを楽しみにしておりました。
  しかし、堂薗先生が率いるカナダチームは今大会で三連覇の偉業を成し遂げ、祝賀会場でもひっきりなしに選手や関係者に囲まれてたいへんお忙しそうでした。残念でしたが、ご挨拶は次の機会にと思い会場を後にしようとしたところ、私を見つけて堂薗先生が駆け寄ってくださいました。

 積もる話の中で先生は、「師家が亡くなった後カナダで師家を偲んで演武会を開いたこと、今でも師家を慕う心に変わりはなく命のある限りついていきたいと思っていたこと、慧先生が師家の志を伝えていこうと努力していることを知ってほんとうに安心したこと、今後は協会のカナダ支部を立ち上げ楊名時太極拳をカナダの地でさらに広めていきたい」ことなど、ご自身の思いのたけを語ってくださいました。
  私はここにも父の自他共栄の心が息づいていると感じました。40年前、師家が蒔いた太極拳の一粒の種が、こうして国内だけでなく海外でも根づき、花開いてますます広がっていくのをみると、なんとも感慨深いものがあります。
  祝賀会の翌日、堂薗先生に本部道場での特別研修会に参加していただいたところ、なんと受講者の中にカナダ海外交流研修会の際に先生のお世話になったという方や、箱根の研修会でごいっしょしたという方がいて、和気藹々と楽しい一日になりました。先生は今年5月の箱根の研修会に出席される予定だそうです。全国から参加される皆さんとともに、またすばらしいひとときを過ごせたらと思っております。
謝謝。

 

 

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